ときどき、ハッとして「帰らなきゃ!」と思ったりする。
するとすかさず、「どこに?」と言う声が、どこからか聞こえてくる。
それで「あなたさ、なに言ってんのよ、すでに帰ってきちゃったんでしょう?」と、
自分で自分に言い聞かせる。
そういう事態に目下遭遇している。
思えば、私は70代の半ばだ。
もう、ボケかかっている、といってもおかしくないような気がするし……。
いや、そうだとすれば、いまさら都会で女の一人暮らしなんかを新たに始めち
ゃって大丈夫かなあ、とも思う。
そうは思うけれど、
せっかく「終の棲家」と考えて移住した那須の高齢者住宅を出てきちゃって、
東京の家にいさぎよく帰ってきちゃったわけだから……。
そう、なんとか一人で頑張らなければならない。
頑張ってみよう、とも思っている。
そもそも、それだけで暮らせるほどの年金もないのだから、
遅ればせながらも、できるだけ自立し、働いていく覚悟を決める必要がある。
今にしてやっと、仕事があることをシアワセと思って頑張ろうとのけなげな思いに至ったのだった。
それはそれで、正しかったと思う。
本当は、もっと、ずっと早くからそういうことを考えるべきだったのだ。
だから思いがけなくも、父と住んでいた東京の実家に誰も住まなくなり、
それが、まわりまわって自分の許にまで戻ってきたことをラッキーだったと思うことにした。
しかも、息子が言う。
「お母さんは、好きなだけここに住んでいたらいい、一人で暮らすのが大変になったら、
その時に介護付きの高齢者ホームとかに住めばいいんじゃないの。まだ、一人でもやっていけるんだから」と。
周りからも、言われる。
「今はね、高齢の親が子どもに頼れるような時代じゃないのよ」と。
「自分の家がまだ残っていて、いざというときに自分でどうにでもできるってラッキーじゃないの。
それは、あなたの将来には不安がないってことよ」と。
「将来かあ?」と思う。
まだ、自分に「将来」というものがあるのかあ? と。
しかも、そのまだ未体験の「老い」の現実というのは、そう甘くはないのだろうなあ、とも思う。
けれど、その未体験の将来という漠としたものを信じて、それがいかなるものなのか、
一人で頑張ってみる、そういう「将来」に自分をかけてみてもいいのかもしれない、とは思う。
みんながやっていることだし。
ともかく、那須で、出会い、共に過ごし、仲良くなった人たちが、遊びに寄れる場所ができたことだけでも、
悪くはない、と思う。
しばしは那須と東京を行ったり来たりしながら、
まだ残っているらしい私の「将来」という時間を、一人で生き抜いてみようかな、と思っている。