今年は、高原の風に吹かれて……と期待していたけれど、那須も暑かった。
じりじりと照り付ける日差しが痛いほどで、
気温が30度を超えるなんてめったにないという場所なのに連日の30度超え。
信じがたい日々が続いたのだ。
おかげで、夏とはどういうものだったのか、ということを思い出してしまった。
そう、夏の原型に再会した私、そんな感じだった。
涼しい夏がフツウのこの場所には、クーラーがないところが多い。
暑い、暑い、と言って、嘆きつつ、うちわをぱたぱた。
汗がじわじわ噴き出すもので、首にタオルは欠かせなく、久々にアセモに見舞われてしまった。
日中は、氷入りの水でひと息つき、扇風機の風に涼を求める。
扇風機はお昼寝の必需品で、リズム正しく首を振って送ってくる風を寝転がって受けていると、
とろとろと眠くなる。これがなかなかの至福の時となる。
それと、なににもまして夕暮れに渡る風の心地よさに目覚めた。
昼の暑さから解放され、ほっとする感じがいい。
すっと気温が下がると、緊張が解け、心身が安らぐのを実感できるのだ。
そして、一日が、かくもメリハリのあるものだったことをなんと久しく忘れていたのだろう、
としみじみと思った。
そう、かつての私は、光に満ちた新しい朝に喜び、動き回る昼を過ごし、
ほっとする夕暮れを経て静かな夜へと至った。
その一日の流れにそって、
光や雲や風が時間を追うように変化していくことを味わい尽くして育ったのだ、と。
とりわけ夕暮れの気配に誘われるように、散歩に出て歩いていると、
遠い記憶が次々と蘇り、子どもの頃の夏の暮らしに舞い戻ってしまっている心地がした。
思えば、私は幼い頃から、夕暮れ時になると一人でふらふらと歩きまわる癖があった。
とくに夏休みは、我が家では、ほぼ子どもは放し飼い状態になった。
夕食の場に「あら、いないじゃないの」ということになるまで誰も気が付かない。
そんな家は、今ではあり得ないけれど、少なくとも昭和の20年代はどこの家もそんな感じだった。
そのあまりの関心のもたれなさゆえに、子どもは子どもで固有の時間を持ち、
いつまでもいつまでも夕焼けの空をひとりで眺めている、という贅沢な時間を持つことができたのだ。
ちなみに、妄想癖のあった私は、「ふしあわせな女の子」にあこがれていた。
物語に出てくる主人公のように、ふしあわせをくぐり抜けずには、しあわせは得られない、
と思い込んでいたので、夕暮れになると、
小さな荷物を持って家出をする一人遊びに、いつも興じていた。
そんなわけで、夏の夕暮れの坂道を裏山に向かってとぼとぼと歩いたり、
途中の草むらに座って、夕暮れの気配に浸っていたりした。
すると、きまって母に言われて2歳上の兄が赤い自転車で、お馬鹿な妹を探しに来た。
そして、「なにやってんだよっ。帰るぞ」と言うのだった。
本当に私は、「なにやってんだよっ」の子どもだったのだ。
けれど、そのおかげで、夏の夕暮れの幼い頃の記憶がとりわけ満載で、
老いてきた今も、退屈することがない。
そんなわけで、今年は、いろんなことに気づかされた夏だったのである。