朝、ベッドの傍らのカーテンを開けると、冬枯れの木が目に飛び込んでくる。

そして、その向こうに朝もやのかかった那須の空が透けて見える。

これからは、目覚める度に眺めることになるこの木が、春が近づくにつれて、芽を吹き出し、

ぐんぐんと濃く、深く、美しく、緑に包まれていくのだと思うと楽しくなる。

そう、私が闇雲に東京から栃木の那須町に引っ越してきて二週間がたったのだ。

馴れない場所に急に来てしまって、さすがの私も寂しくなるかなあ…と

思っていたけれど、そうでもない。

ベッドも、机も椅子も、部屋の中にあるものをまるごと移したので、家の中は

以前と変わらない。なんだか、夢を見ている間に、家ごとここに飛んできてしまって、

気がついたらまわりの景色が突然変わっていた、そんな感じだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

これって、竜巻で家ごと飛ばされて、気がついたら見知らぬ場所に着地していた、

あの「オズの魔法使い」のお話のドロシーちゃんの気分かしらね、と思う。

そういえば、子どもの頃から不意に意識がワープして、

「ここはどこ? ワタシはだれ?」状態になる自分にずっと手を焼いてきた。

けれど考えてみれば、どこに行っても、勝手に「ここが私の居る場所」にしてしまえるのは、

それなりの私の才能かもしれない。

それに、寂しくなるかなあといったって、ここ数年、いろんな人を次々喪って、

もう、私は十分に寂しかったわけだし、その寂しさが埋まるなんてことはもうないわけだし……。

なんてことをひとりつぶやきつつ、私はベッドを出て、着替えると、まず忘れないうちにと、

土間の引き戸を開けて小さなニコちゃんマークを郵便受けの正面に移した。

今や、これが朝の大事な儀式となった。

このニコちゃんマークには磁石が付いている。郵便受けの横っちょにあるそれを正面に動かしたら、

「私、元気ですよ~」のしるし。動かさないままでいると、毎朝、安否確認で回ってくるスタッフが、

「ピンポーン」とインターホンを鳴らすことになっている。

最初、このニコちゃんを動かすのを忘れていて、「ピンポーン」が鳴った。

びっくりして外に飛び出て「すみません」と言ったら、

「いいのよ、ハ~イって返事するだけで」と笑われてしまった。

ここは、60歳以上の人が70人ほど住んでいるサービス付き高齢者住宅なのだけれど、

スタッフも同じコミュニティに住みつつ働いている同世代の方が多いので、なんだかそれが嬉しい。

ちなみに、家は二軒で一棟のコッテージふうのおしゃれな木の長屋。

それが四つのエリアに分かれ、つかず離れずで建っている。

私の家のお隣は、元お蕎麦屋さんで、そば打ちの師匠。

ゆえに、時々、お昼ご飯に師匠の美味しい手打ちそばがでる。

というわけで、私は、春になるのも待たずに、那須で暮らす人、になったけれど、

今となってみると、なぜにそんなに慌ててきちゃったかなあ、という気がする。

引っ越し代が3月、4月は倍額になる、と言われたせいもある。

那須は芽吹きの季節が一番美しいのよ、と言われたせいもある。

どれも理由のひとつではあるけれど、たぶん一番の理由は、

自分の気が急に変わって「行かない」を選択してしまい、あとで機会を逸した、と

後悔するのが嫌だったからかもしれない。

歳を重ねるごとに、決断力が失われていく。

そのことに私は自分で気が付いているのだろう、と思う。