日がな一日遊び回って

日暮れ時にはアケビの棚の下で夕ごはん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひろーいお庭に小川が流れていて、柿の木があって、栗の木があって、

ユスラウメの木があって、無花果の木があって、

家のそばにアケビの蔓を這わせた棚があって、

夏はその棚の下にどこかから調達してきたテーブル置いて、椅子を並べて……。

夏休みの間、ほとんどそこで暮らしてました。

あの頃はテレビもなかったから、

かくれんぼしたり、缶蹴りしたり、川で遊んだり…

日がな一日遊び回って、日暮れ時になるとアケビの棚の下で夕ごはん。

「お腹すいたあ」って言うと、

母が「じゃあ、取りに行ってらっしゃい」と言って、

私、よくお料理を取りに行ってました。

近所の仕出し屋さんが毎朝、いろんな魚やなんか樽に入れてご用聞きに来るんです。

それを見て「じゃあ、今日は甘鯛を塩焼きに」とか注文して、夕方取りに行く。

贅沢じゃないんです。うちは貧乏だったから、そんな高価じゃなかったはず。

京都の町家の人は、そうやって仕出し屋さんから料理をとる習慣があったみたい。

母も実家が呉服屋さんだったから、馴染んでたんでしょうね。

注文しといたおかずを私が取りに行ってる間、

家では母が七輪かなにかでご飯炊いて、

あとはキャベツを刻んだのとか、漬けものとか、それくらい。

だけど、さっきまで跳び回ってたお庭でしょ。

友達とか従兄弟とか、みんな羨ましがって集まってくるの。

うちの母も、食べなさい、食べなさいって人だから、

いつも誰か一緒に食べてました。

父は仕事でほとんどいなかったけど、

母と姉と兄と私と、ほかにもいろんな人がいて、

みんなでわいわい言って食べる夕ごはん。

ほんとうに美味しかった。

辺りがだんだん暗くなってくると、蛍がいっぱい飛んで、星もいっぱい見えて……

すっごく楽しかった。

食卓っていうともう、あのときの光景が浮かんできます。

P4_イラスト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が生まれたのは満州ですが、父も母も京都の出身。

戦後に引き上げてきて、上賀茂にあるおじさんの屋敷の離れに住むことになったんです。

大きなお屋敷で、お庭もすごく広くって、

でも私たちの家は6畳と3畳の二間だけ。

台所もお風呂もない小さな家に5人で暮らしてました。

母は洋裁屋さんをやってたので、

日中はお針子さんが二人きて、布を広げたり、裁断したり。

6畳の間が洋裁工場になる。

夕方になると、バーッと片づけて瞬く間に食堂になって、

それからまたバーッと片づけてお布団敷いたら、もう寝室(笑)。

だけど夏の間だけ、家のそばのアケビの棚の下も私たちの部屋でした。

アケビを植えたのは母。きっと夏休みの子供対策ね。うちの家は半分外よって(笑)。

いま思うと、うちの母ってすごいんです。

竹やぶを開墾してバレーコートつくったり、夏は畑をつくったり。

トマトとかキュウリとか、お腹が空くと畑に行って食べてた。

敷地の中を流れてた小川をちょっと広げてひょうたん型の小さい池をつくって、

橋を架けて、私たちが遊べるようにしたのも母。

池にはアメンボウとかメダカとかいっぱいいて……

あ、そういえば私、メダカを見て「これだ!」と思って、一生懸命捕ったことがある。

おじゃこが大好きだったから、おかずになると思ったのね(笑)。

でも、捕ったのをせっせと乾かしてたら、溶けちゃった。

ベチャベチャになって、臭くなってきて、もうがっかり(笑)。

5歳の終わりから中1の夏まで京都で暮らしましたが、すごく楽しい時代でした。

でもね、後で母の本を読んだら、

おかずが買えないときは加茂川の土手で草を摘んでおかずにした、

なんて書いてあるの(笑)。

父の本にも、どん底の生活だったと(笑)。

両親にとっては、仕事がうまくいかず苦労した時代だったらしいんです。

そんなこと、ぜーんぜん知らなかった(笑)。

違うもんですね、子供の感じ方って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年で歌手50年になります。

昔は、歌手というのは若いほうがいいと思ってたんです。

でも、一つの歌が、何年も歌ってるうちに育ってきてるなと感じたり、

聴いてくださる人と一緒に生きてきた絆を感じることができるのは、

やはり長く歌い続けてきたからですね。

記念コンサートでは、

これまで辿ってきた70年代、80年代の私のことをたくさん感じていただける歌や、

いま一番大切にしてるシャンソンを歌います。

よろしかったら聴きにきてください。

(インタビュー/2015年2月9日)

 

かとうときこ★プロフィール
1943年、中国ハルビン生まれ。東京大学在学中の1965年、第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝して歌手デビュー。「赤い風船」でレコード大賞受賞。以後「ひとり寝の子守歌」、「知床旅情」、「百万本のバラ」など数多くのヒット曲を世に送り出す。その一方、地球環境問題にも取り組み、2000年UNEP(国連環境計画)親善大使に任命される。2008年、ニューヨークの国連総会議場で活動報告とライブを行う(2011年退任)。夫(藤本敏夫氏/2002年没)の遺志を継ぎ、千葉県鴨川市の「鴨川自然王国」を拠点に循環型社会の実現に向けた活動も継続。2011年の東日本大震災後は被災地をたびたび訪れ、福島の子供たちの健康を守る活動などを支援。歌手として50周年を迎えた2015年、全国で記念コンサートを展開中。著書に自叙伝「青い月のバラード」(小学館)「スマイル・レボリューション—3.11から持続可能な地域社会へ」(白水社)、2012年対談集「命を結ぶ」(中央法規出版)ほか。