祖母の和風料理と母の洋風料理、父にもう一品…
三世代同居の昭和の食卓
ながえ ようこ★プロフィール■1953年茨城県生まれ。聖徳大学児童学科教授(学術博士)、SOA校長(株)加藤組・石匠あづま家代表取締役社長。明治大学大学院文学研究科日本文学専攻コース博士課程修了。共立女子大学大学院家政学研究科博士課程修了。アメリカのお墓大学卒業。世界95カ国を回り、お墓の比較研究を行う。日本初のお墓プランナーで、デス•ケアサービスの葬送アドバイザーでもある。大学では、生涯学習(SOA)の人気シリーズ「食の松戸物語」のコーディネーターを務める一方、八柱霊園石材同業組合組合長も務めるなど多忙な毎日。著書は「欧米メモリアル事情」(石文社)、「21世紀のお墓はこう変わる」(朝日ソノラマ),「Q&A21世紀のお墓と葬儀」(明石書籍出版),「臨終デザイン」(明治書院)など。
実家は八柱霊園にある石屋。現在、三代目の私が跡を継いでいます。
東京都の霊園である八柱霊園には7万5千基ほどのお墓があり、石屋が約40軒。
じつは「霊園」という名称を使ったのは、八柱が初めてなんですよ。
多摩も最初は「多摩墓地」で、あとから霊園に変えている。
霊園と墓地の違い?
「墓地」は文字通り昔からの墓地ですが、 「霊園」には御霊の眠るヘブン、
天国とか公園といった意味がある。新しくつくられた言葉です。
こうした郊外型の霊園にはお寺がないことから、
石屋に茶亭を併設するという新しい石屋スタイルが生まれたんですね。
どういうことかというと、たとえば法事や納骨といった場合、
ご遺族はまず 霊園の近くにある石屋に集まり、そこから墓前に行く。
つまり、石屋が湯茶の接待やお墓の管理、 メンテナンスなど、
いわゆる祭祀サポートのような業務を兼ねるようになったわけです。
こうしたやり方は多摩墓地から始まって、八柱霊園もそれに習っている。
この業界、お墓の契約をしたり建てたりという表向きの仕事はいまも男社会ですが、
祭祀サポート的な業務は女が担う。
お店を実質的に切り盛りしてるのは女衆なんです。
説明が長くなりましたが、食卓の話ですよね? はい(笑)。
そんなわけで、想い出の食卓と聞いて私の頭にまず浮かんだのは、
それはそれは忙しかった祖母や母が、
仕事の合間を縫って整えてくれた食卓のことなんです。
昭和30〜40年代にかけて加工食品もあまりない時代に、
あれだけのものを作って 食べさせてくれていたんだなあと…。
明治生まれの祖母は和風料理が中心で、
例えば魚のアラを煮た五右衛門煮とか、矢切ネギと桜えびのかき揚げとか、
炒り豆腐とか、鶏ガラのスープで作るけんちん汁とか…。
ちょっと時間が空くとカウンターの内側にある台所に行って調理したり、
店に置いてある練炭火鉢で鶏ガラをコトコト煮込んだりしてました。
一方、母は、茨城の養鶏場の娘で、スポーツカーを運転するようなハイカラな人。
料理も洋風のものが多かった。
父が大好きだったシュウマイやカキフライ、トンカツ、
少し甘めのソースに片栗粉でとろみをつけて煮込んだ和風ハンバーグ、
カレーコロッケ…。
大きなまあるいちゃぶ台に、
父がいて、祖母がいて、母がいて、幼い私と1つ年下の妹がいて、
祖母の和風料理と母の洋風料理、父には何かもう一品つきました。
父を中心に三世代同居の昭和の食卓。
向田邦子の世界ですね。
食事のときはもちろん正座。
足を崩すと、祖母に「お行儀が悪い」って叩かれました。
だから私、いまでも正座で1時間ぐらいは平気。
お茶を15年ほど勉強させてもらいましたが、正座だけは褒められた(笑)。
みんな忙しかったから、家族そろって食卓を囲むことは少なかったのですが、
たまにそんな日があると本当に嬉しかったですね。
家族の中で唯一の男である父は、身長が175㎝あって、
なんでこんなに太ってるんだろう?ってくらい太っていて、大変な食いしん坊。
当時は珍しい生のパイナップルとか、
いろんな美味しいものを買ってきて食べさせてくれた。
家族みんな、父のことが大好きでした。
いま思えば、祖母も母も、子供の好きなものを作るというより、
父の好きなものを 作っていた気がする(笑)。
父のあの体格は、祖母と母の愛のこもった料理の結果ですね。
母が作ってくれたものでもう一つ思い出深いのが、お醤油ごはんと卵焼き。
炊きたてご飯にお醤油と味の素を混ぜておにぎりを作り、
海苔を隙間なくしっかり巻くんです。
それと、卵をいっぱい使って焼いた、透き通るように黄色くて甘い厚焼き卵。
日曜はとくに忙しかったので、
いつもたくさんのお醤油ごはんと卵焼きを作っておいてくれました。
休みの日のお昼の定番メニュー。
食べることは、生きることですね。
あれから祖母が亡くなり、主人の両親が亡くなり、 父が亡くなり、
そして去年、母も亡くなり…。
それを見ていてつくづくそう思いました。
亡くなるということは死ぬことだけど、でも断絶じゃない。
こうした思い出の1つ1つが、私の大切な財産として残っているのですから。
(インタビュー:2014年6月21日)