東京で仕事を終え、那須に戻ると高原には芽吹きのときが訪れていた。
出掛ける時にはチャコールグレーだった森が、淡い緑のベールに覆われている。
この新緑の初々しさの中にいると、すこし疲れ、くすみかけていた気持ちが澄んでくる。
なんだか嬉しくなる。
そして、久しぶりに友の顔が見たくなり、友の一人を訪れた。
チャイムを鳴らし、表のガラス戸の前で「帰って来たよ~」と手を振り、
口をパクパクさせ両手を振り、おどけて見せた。
同じサ高住に住む高齢者。
それぞれがそれぞれのリズムで自立して暮らしている。
ベッドに横たわって休んでいる人もいるし、読書に耽っていたり、趣味の
作業に没頭していたり。買い物に出掛けようとしていたり……。
そういうリズムを乱すのは、同じ入居者としては心苦しい。
ところが、手を振って立ち去ろうとすると、友人の一人である彼女が、
まるで私の帰りを待っていてくれたように、目の前の引き戸を大きく開け放った。
なぜか私は誘われるようにそのまま土間に入り、靴を脱ぎ、一気に部屋の中を突っ切って、正面の椅子に座った。
「あらら、なんで私、入っちゃたんだろう? ごめん」と首を傾げて言ったら、
「いいの、いいの、嬉しいんだから。で、ご飯食べた?」というので、
「食べてないよ」と言ったら、
「じゃあ、今日は、ここで一緒に夕飯食べよう」と言う。
そんなわけで、御馳走になることになったのだけれど、キッチンに立った彼女は、
たちまちのうちに手製のドレッシングをかけたサラダに、麹味噌に漬け込んだお肉のソテーに、
懐かしい母の味がするバターご飯………などをあっというまにテーブルに並べた。
ベテラン主婦だった女性の能力の高さとは、こういうものなのか、と思い知らされる。
そして、その夜は、そのままお茶を飲みながら、文学少女だったという彼女と話が弾んだ。
とりわけ少女時代に読んだ「ジェーン・エア」や「嵐丘」「チボー家の人々」などの話で盛り上がった。
十代の頃だから、なんとなんと六十年以上も前のことだ。
そんな話をすることなど、今はほぼない。
ところが、深く記憶の底で眠り続けていたものが、話し手を得て蘇っていくその鮮やかさ。
気が付けば、深夜の二時まで少女時代に心酔した小説の話を二人で続けていた。
それにしても……。
数日前の記憶がたちまちおぼろになってしまう年齢になっているのに、
眠り込んでいたはずの記憶が蘇った時のこの明瞭さはなんなのだろうと、
それは、あっけにとられるような不思議な夜の出来事だった。