月日の流れは、早い。
私は毎朝、目覚めると、まず部屋の出入り口の引き戸を開けて庭に出る。
そして、連なる那須の山々を眺める。
この季節は、山々は真っ白な雪を冠っていて、その姿が凛々しい。
神々しくもある。
思わず、手を合わせたくなる。
そして、背景の空はどこまでも広く、限りないその空にぽっかりと浮かぶ雲が風に流れていくさまにも出合う。
そんな光景を見つめていると、
私の頭の中には、必ず、このフレーズが浮かんでくる。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
奥の細道で、かの芭蕉が言ったこの言葉、
月日って、永遠に旅を続ける旅人のようなものさ、という意味だけれど、
この言葉をつぶやくと、毎日、毎日、とめどもなく流れいく日々と共に、
老いを重ねていく自分のことを考えずにはいられない。
そう、時ってとめられないんだよなあ、と。
で、私は、このまま流れに身をゆだねてぼんやり生きていっていいのかなあ、とか思うようになっている。
なにしろ、衝動的に都会からこの自然に包まれた土地に移住してきて、
はや6年目。このまま、7年目、8年目………。
なにも考えずに暮らしていたら、あっというまに10年が過ぎてしまうだろうなあ、と。
それでいいんだか……まずいんだか……。
そもそも、同じこのコミュニティで暮らす人たちとは、目下、つかず離れずで暮らしている私だけれど、
よくよくこの関係を考えてみれば、ただの親しいご近所さんというのとも違う、
友達というのとも違う、家族のようなというのでもない、運命共同体というほどでもない。
志を一つに、何かの目標に一緒に向かっている同志、というわけでもない。
なんかなあ、名付けようのないこの関係をどう考えるべきか、などと思ったりする。
実は昨年、私は、膝を痛めたり、体調を崩したりしたせいで、歳を重ねるということは、
なるほどこういうことなのか、とついに「老い」を受け入れた自分を、感じた。
「老い」って、いきなり来ちゃうのよ、とみんなが言っていたのは、本当のことだったのだ。
那須にきてからのこの5年、いろんなことがあったけれど、
自分の「老い」をついに自覚し、受け入れざるを得ない経験をしたことで、
自分が、新しい人生のステージに立ったような気がする。
これからは「老い」と共にどう生きて行くのか、それが問題だ。
家族に依存できなくなったこの時代の、このコミュニティで、
高齢者同士がどう支え合って暮らすのか、
これってなかなかの冒険だな、と思う。