人生は、時に思いがけない方向へと展開したりする。

それで、私は成りゆきまかせで生きればいいや、なんて思うようになった。

そんな私は、三十代の半ばに4歳の息子を連れてサーカスに入り、

一年ほどテントで暮らしたことがある。

なんでサーカスに? と聞かれるが、

その頃、SFの叙情詩人と呼ばれた作家、レイ・ブラッドベリの本に夢中だった。

頭の中がファンタジー状態だったのだ。

本に描かれる風をはらんだ天幕、玉乗りの少女、

色とりどりの衣装を着たクラウンたち……

シングルマザーの私は、保育園に行き渋る息子に手を焼き、

仕事にも嫌気がさしていた。

それで、そうだ、サーカスなら子連れでも働ける、と思った。

息子に「サーカスで暮らすってどう?」と聞くと、

「行く、行く」とぴょんぴょん跳ねて喜ぶので、

「幼いこの子の人生へのプレゼント」と思ったのだった。

サーカスで、私は炊事の下働き、息子は毎日、サーカスの舞台に夢中になって

過ごした。サーカスの暮らしは、子供にはファンタジー。

大人にはリアルで厳しい。

今思えば、頼らず、すがらず、自立して生きぬく修行のような日々だった。

なにしろ、1カ月に1回、自分のテントを壊して、別の場所にまた自分の寝小屋を建てる。

それが当たり前の日々だったのだ。

私はサーカスを出た後、取材を重ね、この体験をノンフィクションとして本にした。

ところがその本が、テレビでドラマ化された。

ドラマでは、不倫に敗れてサーカスに行った私は、なんとそこでサーカスの男と恋をする、

という筋立てになっていた。

そのぐらいにしないとドラマにはならないよ、というわけだった。

編集者やプロデューサーに「ケイちゃん、ここは、今後の生活のために」と説得され、

「まあ、いいか」とそれを了承した私だった。

だって、ビンボーだったから……。

でも、おかげで私は恥ずかしく、サーカスの人たちに合わせる顔もなく、疎遠になってしまっていた。

そのうちサーカスは倒産し解散してしまったのだった。

ところが、なんてことだろう!

那須に移住してきた私は、当時、サーカスで一緒だった美一さんに再会してしまった。

38年ぶりの遭遇だった!

彼女は、同じ那須町に暮らしていて、私が借りた「原っぱ」の地主さんと知り合いだったのだ。

その彼女が、最近ラインを立ちあげたので、

人から人へと鎖のようにあの時のサーカス村の住人たちがつながっていく。

北海道から、九州、四国……と、みな全国に散り散りになって、それぞれがそれぞれに生きている。

中にはまだ現役のパフォーマーもいる。

「原っぱ」でシニアたちのサーカスパフォーマンスが演じられるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなことができたら……と夢見てしまう。

このコロナ禍である。

現実が厳しいとその分、頭の中のファンタジーがどんどん肥大化していく私である。