最近、なにかにつけて父のことを思い出す。
たぶん、私が、あの頃の父の年齢に近づいてきたせいだと思う。
あの頃とは、私が子連れで実家の両親と同居を始めた頃のこと。
それを契機に、私は思いもかけなかった人生の試練に立ち向かうことになった、
と思っていたのだが……。
じつは、試練に見舞われたのは父の方だったのかも。
まさに、それは、彼にとっての想定外の日々の始まりだった。
当時、父は70歳。企業人人生から完全にリタイアして、
いわば定年後ののどかな生活を始めたばかりの時だった。
一方、20歳で家出をして、破天荒に生き、子どもまで産んで、
しかも東京でフリーライターのシングルマザーだった娘の私は38歳。
父は、その娘の家出中に、東京から北九州に転勤になり、
そのまま18年のブランクの後に、人に貸していた東京のマイホームに戻って、
妻と共に娘と幼い孫と一緒に暮らすことになったのだ。
それもこれも「あの娘を放ってはおけない」という妻の説得に屈してしまったせいなのだけれど、
その妻が一年後に倒れて、
なんと全介護状態になってしまったのだ。
その後12年にわたって父は、理解不能な娘と孫と暮らしながら、妻の介護を続けた。
これまで、一度も父の立場で考えたことがなかった私なのだけれど、
当時の彼の年齢に自分が近づいてきたら、
これって父を見舞った想像を絶する災難だったのだ、といきなり気が付いてしまった。
今、自分の身にそんなことが降ってきたとしたら、
「ちょっと、勘弁してくださいよ」、そう思うにちがいない。
でも、父はたじろがなかった。
けれど、我が家は、優秀な専業主婦だった母に全面的に日々の生活を依存していたので、
とんでもない事態になった。
毎日の食事、掃除などの家事、子育て、
仕事、介護……これ全部は無理でしょう、そう思った私は、父に言ったのだ。
「とりあえず、私が仕事をやめて、専業主婦役をやるので、
お父さんの年金で、私と息子を扶養して!」
きっぱりと、父に断られた。
「それはできない、お前はお前で働いて自立してくれ」
「じゃあ、家事とか、どうするの?」
「ボクがやる」
自分でお茶もいれたことのない人が!と思ったが、
父は、食事を作り、ゴミを分別し、掃除をし、庭の雑草を抜き、家計管理もやり、
さらに孫の宿題をみて、私に代わって学童保育の会計係まで担当した。
理系の父は化学が専門だったが、
「お前、食事作りは、化学実験みたいなものだなあ」と言って、
なんでも正確に計量をして、レシピ通りに作るので、あっというまに料理が上達した。
その一方で、父は、頑張って親の介護をするのは人の道だ、とか言って、
実家に住んでいるという理由で、私から部屋代も生活費も、躊躇なくとり立てた。
そんなふうだから、日々喧嘩、日々闘いを繰り返しながら暮らしたが、
おかげで私は仕事を断念することなく自立する力をなんとかつけていった。
今になって思う。父の年金で扶養してもらう道が、どれほど危険な道だったか。
「自立しなさい」と厳しく言われたことに助けられたのだと、身に染みて思う。
父は92歳で逝ったので、彼の晩年の22年間を共に暮らしたことになる。
その時間がなかったら、自分の父親を本当の意味で理解することができなかった。
長生きをしてくれてありがたかった、と思う。