酷暑の夏もついに過ぎ、家にこもっていた人たちがお出掛けを始めたらしい。

ご近所の住宅街を自転車で走り回っていると、なにかと声が掛かるようになった。

「あら、元気?」とか「久しぶりだわねえ」とか。

その度に、自転車を下りて、ちょっとした世間話をする。

「お宅の垣根のつるバラきれいね」

「あら、じゃあ、今度、苗をあげるわよ」

いずれも同世代か、それ以上か。

最近の住宅街はめっきり高齢化している。

それにしても、なんと月日の経つのが早いのだろう。

気が付くと、この住宅街に住んでもう私は、18年にもなる。

これまでの人生で最長の滞在年数になった。

放浪体質の私には、これは驚異の長さ、信じがたいことでもある。

おかげで、この頃、無性にどこかへ移動したくなっている。

母も父も看取って、一人暮らし。引越ししたい衝動に駆られる。

それを「近所に温泉はあるし、映画館もあるし、交通便利で緑も多いし、

知り合いも増えたし、こんないい住環境は他にないでしょう、

息子夫婦も近くに引っ越してきちゃって、孫娘まで登場しちゃったわけだから、

今、引っ越すのは無理よ」と、自分で自分に懸命に言い聞かせている。

そもそもは、私がこの地に引っ越してきたのは、母の介護のためだった。

神奈川の実家で仕事をしつつ、子育てしつつ頑張っていた母の在宅介護に、

10年目で力尽きた。父も老い、もう限界だった。

それであちこち捜しまわったあげくに、これだ! と思った有料の老人ホームが

この住宅地の中にあったのだ。

久田3_あら、奥さん

 

 

 

 

 

 

 

息子が、18で家を出て行ったのをきっかけに、「家族解散」を宣言して、

私は母のホームの近くに賃貸マンションを借りて住んだ。

一年ほどは、父、母、息子、私の4人がばらばらになっていた。

ところが、母の入居したホームの徒歩3分のところで売り出された中古住宅に父が、

いきなり住み替えた。

新聞の折り込みチラシを見て、即電話、即購入。

湘南に定年後の終の棲家として建てた思い出深いマイホームをあっけにとられるほど、

あっさりと売却し、引越してしまった。

それは、当時80歳だった父の大、大決断だった。

母の介護のための住み替えなので、家を不動産物件としては、吟味していない。

土地が借地ではなく転借地で、今後の家の売却が難しいらしいのだが、

そういうことなどまるで念頭になかった。

それ以後は、父の希望で私が同居し、父と娘で長く暮らすことになった。

近所の方には、若い妻と老いた夫の風変わり夫婦だなんて、勘違いされたらしい。

それにしても、と周りからは言われる。

「お父様は80歳も過ぎてからよくそういう決断ができましたね」と。

それもこれも、彼が転勤の多いサラリーマンだったせい。

辞令が出れば、即赴任、

このライフスタイルが身についていて、引越しに対する抵抗感がなかったのだ。

しかも、昔は単身赴任ではなく、転勤の度に北海道、東京、北九州、と家族ごとに大移動。

マイホームを持たない社宅暮らしが、当たり前だったから、

自分の住む家や土地に未練をもつ習性がなかったとも言える。

子どもの方も、そういう流れ流れの生活を当たり前のものとしていたので、

この私の中にもついに定住意識なるものが育たなかった。

数えてみれば、私のこれまでの引越し回数は15回に及ぶ。

若い頃は、平均2、3年で、さしたる理由もなく引っ越しを繰り返してきた。

転勤家族で培われたこの落ち着きのなさは、どうしたものかと思うが、

よく考えれば、悪くないのかもしれないと思う。

必要とあれば、どこに住むのも厭わず、常に、新しい生活環境にわくわくできる。

郷にいれば郷にしたがえで、その場所にたちまち馴染んでしまう。

こういった柔軟さは、今後、高齢になればなるほど、身を助けることになるかもしれない。

東京は、施設が足りなく、高齢者は介護難民化するなんて言われているが、

日本全国、どこの老人ホームに行っても、そこそこ楽しくやっていけそうだし、

と思うこの頃の私である。

久田さんH200

ひさだめぐみ★プロフィール

1947年北海道生まれ。上智大学文学部中退後、ノンフィクションライターとして活躍。『サーカス村裏通り』で作家デビュー。『フィリッピーナを愛した男たち』で第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『息子の心、親知らず』で平成9年度文藝春秋読者賞受賞。『母親が仕事をもつ時』『トレパンをはいたパスカルたち』『今が人生でいちばんいいどき!』など著書多数。
個人事務所のサイト花げし舎