「このビスケット、ぷーんと歯磨きの匂いがする」

と、綱正さんが…

 

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昭和19年に古谷(文芸評論家。後に夫となる綱武氏/1984年没)が、

兵隊に行くことになりまして。

私はそのとき古谷の仕事を手伝っていた関係で、

頼まれて阿佐ヶ谷の家を預かることになったんです。

26歳のときでした。

最初は一人でしたが、

翌年、弟の綱正さん(ジャーナリスト/1989年没)がやってきた。

勤めてた毎日新聞社の寮に爆弾が落ち、

「行く所がないからここに置いて」と言って。

しかも同僚も一人。あとからもう一人連れてきた。

結局、家だけでなく、男三人の面倒まで引き受けることになってしまったの(笑)。

新聞社って案外、闇米とか手に入ったようで、持ち帰ってくれたり、

出張のとき肉やお米を買ってきてくれたり…時にはそんなこともありましたが、

それでも食べ物がどんどん無くなっていく時代。

食卓を整えるため、工夫に工夫を重ねました。

その日も、午前だけ会社を休んで、綱正さんたちと燃料を買いに行ったんです。

空襲警報が出ている中、

リヤカーに亜炭を積んで、なんとか無事に家までたどり着き、

お腹が空いたねということになった。

でも、食べるものが何もなくて。

非常用に焼いておいた糠ビスケットを出して、お昼にしようと思ったの。

お塩を少しと、配給の小麦粉をほんの少し入れただけの、

バターも卵も入ってないビスケット。

それに買い置きしてあった紅茶を入れて、三人で食卓に着いたんです。

ところが、ビスケットをひと口食べた綱正さんが「ぷーんと歯磨きの匂いがする」って。

その時、「あ、歯磨き粉入れたんだ!」と、気がついた(笑)。

あの頃、玄米が配給になったんですね。

それを一升瓶に入れてハタキの棒なんかで搗くんですが、

歯磨き粉を入れると早く搗けると聞いて…。

研磨剤が入ってるからでしょうか。

やってみると、少し早く搗けたような気はしたのですが、

歯磨き粉のことはすっかり忘れ、

いつものように残った糠でビスケットを焼いちゃったんです。

もう、みんなで大笑い。

それでも「命に関わりないんじゃない」と言って、ぜんぶ食べちゃった(笑)。

これを食卓と言えるかどうか分かりませんが、忘れられない思い出です。

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その年の夏に戦争が終わり、

その後、古谷と結婚して、やたらにいろんな人がいる家で暮らしてきました。

訪ねてくる方も多かったし、

古谷も、飲んだあといきなり編集者を連れてくることもしょっちゅう。

とにかく慌ただしい毎日で、特別な食卓の思い出というものがないんです。

すべてが思い出と言えば、言えますけど。

私もずっと仕事を続けてましたが、

古谷綱武の女房っていうと、みんなそんな目でみますからね。

古谷に対しても、綱正さんに対しても、迷惑がかかってはいけないと、

そこはやはりとても気を使いました。

姑を先に見送り、1984年に古谷を見送って、その1週間後。

大阪で講演の仕事が入っていたんです。

いくらなんでもと思い「お断りできませんか?」と訊いたけど、無理だと。

「じゃあ、行きます」と言って出かけたんですね。

ところが、帰りに雪が降って新幹線が動かないということになった。

一瞬、困ったなあ、どうしよう、と思って、そこではっと気づいたんです。

「そうだ、帰らなくていいんだ」って。

そしたら、とても気が楽になった。

これから自分の責任で自由勝手に生きていいんだ、

これが一生続くのだと思ったら、

経験したことがないほど自由な気持ちになって、嬉しくなっちゃったの(笑)。

65歳で一人になって、そこから吉沢久子になったんです。

 

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姑に対しても、古谷に対しても、

一所懸命にやってきたという思いがあるから、悔いがない。

だからこれは、家族が私にくれたプレゼントだと思っています。

年が明けると、すぐに97歳の誕生日を迎えます。

年齢のことを考えると、新しくあれこれということはあまり考えない。

それより、今日持ってる能力を、明日に続けることが最大の目標。

これは女優の北林谷栄さんに教わった言葉ですけどね。

甘える相手もいないし、戦時中のひどい暮らしも経験してるから、

自分で自分の生活を賄っていかなければという思いが強いですね。

食事の用意もそうだし、ほどほどに仕事をする能力も残しておかないといけない。

だから無理もあまりしないようにして、体の趣くまま人生を楽しんでいます。

(インタビュー/2014年12月15日)