焼いた牛骨と玉ねぎ、トマト、果物、ワイン…
3週間かけて作ったビーフシチューを母と
想い出の食卓? 一日あっても話しきれないよ、きっと(笑)。
でも、そうだなあ……「鯵の坊や」か「ビーフシチュー」の話をしようか。
鯵の話というのはね、
子供のころ住んでた高輪(港区)の家の近くに伊皿子という商店街があって、
母の買い物によくついて行ってたの。
で、魚屋さんで「何食べたい?」って訊かれるたびに「鯵」って言ってた。
焼いた鯵にお醤油をたっぷりかけて、白いご飯食べるのが好きだったんです。
それで魚屋のおじさんに「鯵の坊ちゃん」ってあだ名を付けられた(笑)。
当時の食卓の様子、いろんな人にいろいろ訊かれるけど、特別なことは何もない。
ごく普通。ぼくと二人の姉と母とお手伝いさんと、畳の部屋で食べてました。
姉たちとは8歳と6歳年が離れてるから、ぼくなんてみそっかすでね(笑)。
女きょうだいしかいないのを心配した母が、ボーイスカウトに入れてくれたんです。
そこで、飯ごうでご飯を炊く方法とか、いろんなことを教わった。
それは、今でも母に感謝してます。
母の料理? あまり上手じゃなかった(笑)。
全く料理をしない環境で育ってるから(実家は会津松平家)仕方ないんだけど、
ぼくの方がうまかったな(笑)。
母の教育は大らかで、うるさいことは言いませんでした。
ま、いろいろ心配はしてたでしょうが…。
本当は銀行なんかに入って、普通のサラリーマンになってほしかったようだけど、
広告会社のカメラマンになっちゃったし。
でも、大学に入って気づいたの。
経済学部の教授に金持ちそうな人はいないって。
その膨大な知識をもってすれば、大金持ちになってもおかしくないはずなのにね。
ぼくはそこで、学歴や点数じゃ飯は食えないと学んだわけです(笑)。
といっても、ぼくだってサラリーマン。お金持ちじゃなかったからね。
高価なビーフシチューをなんとか家で…と考えたのが「ビーフシチュー」の話(笑)。
雑誌に載ってたデミグラスソースの作り方を参考に、
オーブンで焼いた牛骨を、炒めた玉ねぎやセロリ、にんにく、トマト、果物、
ワインやなんかと一緒に寸胴鍋で煮込み、あとは朝晩2回、5~6分ずつ火にかける。
これを7〜10日続けたら一度漉して、
さらに1~2週間、同じ要領で火にかければデミグラスソースの出来上がり。
このソースで、フライパンで焼いた牛バラ肉を煮込み、
味を整えたらビーフシチューの完成です。
3週間かけて初めて作ったビーフシチュー、母と一緒に食べました。
すると、ふだん褒めやしない母が「外で食べたら二千円」と(笑)。
へえーと思いましたね。
初めてじゃないかなあ、褒めたの。
しばらくして伯母(故喜久子妃)にも
ビーフシチューとヴィシソワーズをお持ちしたのですが、
とても喜んでくださいまして。
また食べたいなんてことは決しておっしゃらない方ですが、
そのあと何度も「あれは美味しかった」と。
自分の作った料理を喜んでもらうのは、嬉しいものですね。
今はもう、父(德川慶喜家三代目当主)も上の姉も亡くなり、
母も伯母も亡くなった。
人間いつか死ぬんだから、
それまで、やりたいことを一生懸命やらなきゃと思うようになりました。
例えば?
いつかキャデラックのオープンカーに金髪美人を乗せて
海岸道路を走りたいと思ってたんだけど、一昨年、ついに実行した。
宮崎の一ツ葉有料道路を走る往復三千㎞の旅。
ま、キャデラックがトヨタのMR-Sになり、
金髪美人は大きなスヌーピーになったけど(笑)。
昔からぼく、チャーリー・ブラウンのつもりでね、スヌーピーが好きなの。
さすがに疲れたけど、気持ちよかったですよ。
(インタビュー:2014年4月10日)