ついに、2018年がやってきた。
この年を私は自分の老年期の始まりと定めていたので、
あら、まあ、どうしましょう、まだなんの準備もできていないわ、
みたいな気分で目下、どきどきしている。
つまり、いよいよ団塊世代である私の70代のはじまり、はじまり……。
実は、父が企業社会から完全リタイアして東京に戻ってきたのが70歳の時。
その時、私は子連れで両親との同居を18年振りに始めたのだった。
すぐに母が倒れて介護になり、後に息子が不登校になるとか……。
その後のてんやわんやの中で、父の70歳からの人生を私は傍らで見続けた。
言ってみれば、92歳で亡くなった父のこの歳から始まった20年間は、
まさに「新たな人生のステージ」だった。
そこをどう生きたかということで人の真価が問われるのだと、
父を見て私は思い知ったのだ。
父との暮らしは葛藤だらけだった。
けれど、振り返ればなんと自立した男だったのだろう、と思う。
今や父の老年期からこそ学ばねば、と思うのだ。
とにかく彼はチャレンジャーだった。
母が倒れてから即刻、料理を始めた。
妻が愛読していた「暮らしの手帖」の料理本を教科書にして、
レシピ通りに正確に作った。失敗がなかった。
彼が台所に立つ姿を見たことのなかった私は、びっくりしたけれど、
「なんだ、料理ってもんは、化学実験みたいなもんだなあ」と、喜々としていた。
彼は、理系の技術者で化学の専門家だったので、
朝ご飯の半熟卵づくりにさえデータをとって、毎朝完璧な半熟卵を食卓に出した。
妻の介護もいっさい手を抜かず、リハビリの道具を自作して妻を叱咤激励し、
孫に勉強も教え、
計算能力のない娘にあきれて、私が担当だった自主学童保育の会計係も担当し、
地域貢献もした。庭掃除、ゴミの分別、掃除、買い物、
当たり前のようになんでもこなした。
趣味にも励んだ。
72歳でスクーターの免許をとりに行き、
ヘルメットをかぶり、赤いラッタッタに乗って、
海沿いの湘南道路を「ぶっ飛ばし」た。
当時、実家は湘南にあったので、鎌倉や三浦半島めぐりなど
行先にことかくことがなかった。バイク屋の叔父さんと親友のようになり、
赤いラッタッタの走行距離が地球半周に達したなどと自慢していた。
老いて尚、エネルギーの枯渇しない人だった。
しかも、娘の私が実家に住んでいるという理由で、
部屋代二人分、生活費折半、車のローン代など、問答無用に徴収し、
甘やかすことがなかった。
「お前には経済的にも自立して生きてほしい。ただし親の介護は人の道だ」
そう言い渡された時の父の声が、まだ耳にも心にもりんりんと響くようだ。
そんなわけで、70歳からの日々を「新しい人生のステージ」として、
自分らしく老年期を生きるスタイルを見つけ出さねばならない私なのだ。
その今年の課題をどう見つけるか。
それが問題だ。
周りを見渡すと、この70歳を節目に同世代の同業の、
とくに男性たちが次々に仕事の事務所を閉めて自宅に戻っていく。
大がかりな引っ越しを自力でやれる最後の年齢だから、なんて言っている。
私も、とりあえず、心おきなく軽やかに新しい選択ができるように、
いつでも引っ越し準備を着々と進めておこうと思っている。
20年前、東京に引っ越しを決めた時、
両親に代わって実家の整理をたった一人で担ったのだけれど、
まだ50歳だったのに、私はその大変さに毎晩のように泣いていた。
そう、今年は、まず人生最後の「大片づけ」から始めようと思う。